キリスト信者の霊性(16) ―希望の徳―

 この一枚の紙はあまり広くはありませんので、一つのテーマを取り上げるときは、それについて書き尽くすことは不可能です。書きたいすべてのことを書くよりも、ある程度電報式で、 主なことについて書き、ひとつの方向を指し示し、それに従って読者がその内容を自分で補う、あるいはそのテーマに関して、個人で調べたり、それとも疑問があれば質問なさるように書きます。
 多分、あるときは、ここに書いた記事は、落胆的な感じを与えたかも知れない。しかし、そんな積りで書いたことはありません。
 信者のひとつの基礎的な徳は、希望の徳です。
 希望がなければ、キリストさまも救いのみ業をも、理解することはできません。希望がなければ、イエズスさまが与えてくださった命をよろこんで生きることは出来ません。 イエズスさまご自身は、亡くなられる前夜、最後の晩餐の後に、使徒たちから別れなければならないことを惜しみながら、ご受難が始まる直前に非常に楽観的であって、 「勇気をだしなさい。わたしはすでに、この世に打ち勝ったのである」(ヨハネ16:33)と言われました。
 聖ヨセフ・カラサンスも、亡くなるとき、一生涯の業が破壊された事実を見つめても、修道者を励まして、わが修道会の復活を予言なさいました。
 記事は、別々に読むよりも、全体に書いたことを見失わないで、他の記事と関連させながら読んだ方がいいと思います。
 きょうはキリスト信者の希望の徳について簡単に書きたいと思います。
 公教要理によると、希望の徳とは「超自然の徳であって、これによって人は永遠の生命と、それを得るために必要な恩恵とを、神の御約束によって受けることを希望します」(カトリック要理)。
 この徳に反して、二通りの罪を犯す可能性があります。
 すなわち、希望が足らない(罪)と根拠なしに希望があり余る罪です。希望が足らないときは失望の罪になります。その反対に、神の憐みを軽々しく頼みにして平気で罪を犯すときは、それは「自負心」の罪になります。
 古い諺によれば、「徳は中道にある」、換言すれば、徳は俗語でいうと、右にも左にも片寄らないものです。
 信者である私たちは、希望の徳をもって、物事を楽観的に見るべき理由が数多くあります。
 キリストさまがこの世に来られたことは無駄ではないはずでしたし、教会を目的なしにお建てにならなかった。逆に、人間になって、ご自身の命をいけにえにして私たちを罪と悪から開放してくださったことによって、期待する根拠を与えられました。
 ご自分の復活は、我々の復活を裏付けます。信者の人々に迫害や苦しみを予告してくださいましたが、同時に、「わたしは世の終りまでいつもあなたたちとともにいる」(マタイ28:20)とおっしゃいました。
 ご存知のように、ヘブライ語では、「あなたとともにいる」という表現は、あなたを支え、あなたを助けながら、ともにいる」という意味があります。神さまは、消極的におられるのではなくて、ご自分の無限なる存在をもって、愛する人々を助けておられるのです。
 例えば、神がゲデオンに現れたとき、「わたしはおまえとともにいる」(士師6:16)とおっしゃいました。すると、神の御助けのおかげで、ゲデオンは三百人の兵士だけをもって、マディアン人の大軍を破りました。
 きょうも主は教会と私たちとともにおられます。ゆえに我々は「神が私たちについてくださるならば、誰が私たちに逆らうことが出来ますか」(ローマ8:31)と聖パウロの言葉を、自信を持って繰り返すことができます。
 今日は司祭職への召命の不足、聖体の特別奉仕者の必要性などについてよく話されます。なぜなら、遠からず、司祭のいない教会が増えるだろうと思われるからです。また、信者の人数はあまり増えないから、第二のナイスを行うべきだと言われることもあります。
 これは、いまの教会は落胆的であって希望がないという印象を与える可能性がないとはいえませんが、絶対にそうではありません。
 ただ、私たちは熱心に努力して、現実を見つめながら、必要な手段を考えなければなりません。しかし、そうすると同時に、あらゆる問題を解決することが出来る神を信頼して、希望を持たなければなりません。
 聖ヨセフ・カラサンスが何回も体験したとおり、神さまは最後のときに間に合わないと思われるとき、みごとに助けてくださいました。エスコラピオス修道会は日本において、何年間か志願者がなかったけれど、 先月、我々の横浜の戸部教会に属する二人の若者は、入会の希望を表わして、近いうちに志願期間を始める予定です。この若者が最後までキリストに従う力が与えられますように、皆さんのお祈りをお願いします。
 私たちは、ゆるがない希望をもちながら、一時的な危機を耐えるように準備しておかなければなりません。
(H02.07.01 年間第13主日)top home