西暦800年頃の日永の様子
此れを見れば解るようにこの時代の日永は海のそこで現在の地名にも
中の瀬古:当時は中の瀬と呼ばれた島で満潮時には海の底だったようです。
大瀬古:当時は大瀬と呼ばれた島で満潮時でも島の一部が海面に出ていたようです。
人家は四日市南高校の西側の岡山と呼ばれた所と中部電力変電所の西にある茶臼山遺跡のあたりに弥生時代から有った様で、岡山遺跡や茶臼山遺跡から矢じりや石墳、円墳等が見つかっているが、当時の記録には日永小学校や四日市資料館に資料が保存されたという昭和22年当時の資料はありますが、現存しているか不明です。
岡山の西には船付神明が有った様であるが今は公園になっています。
六呂見のあたりには海に飛び出た岬か砂浜が有り、先端に神社があったが今の海山道神社になるのだろうか。