日永地区には古墳や歴史的な寺院が多くありました。
古墳
岡山貝の谷古墳:四日市南高校の西一帯
茶臼山古墳:中部電力変電所西の旧味の素社宅一帯
登城山
四日市南高校と泊山小学校の中間地点辺りの西の山にあった登城山には、 日永城があり、日永の楯三郎という人物が統治していたが、
1204年に発生した三日平氏の乱で源氏側の攻撃により落城した。
この時に落城したのは、朝明郡富田館、関町久我、西坂部城、松本城、日永城の順で日永城が山の防壁に囲まれていたために、
最後に落とされたと思われる。
寺屋敷
四日市南高校と白髭神社の中間点には寺屋敷と呼ばれた地域があったようである。
普光山証明院実蓮寺史に1220年登城山にあったものが、現在の地に移転したと伝えられているので、日永城の落城時期に近いため、
寺屋敷は実蓮寺の跡地かもしれないが、当時の資料が無いため確認は出来ない。
実蓮寺
実蓮寺は当時から尼御所と称されていて代々尼様により管理されてきたが、先代の尼様が20年ほど前に亡くなられ、
尼様のなりてが無いために門前の話し合いにより近くの浄土宗のお寺の住職さんに依頼して維持している状態です。
滝川一益の母の墓とされる五重塔がありますが、文字が風化している為に現在も確認されていませんが、
滝川一益の子孫が菩提寺としていることから、間違い無いと思われる。
また、1596年から1625年に宮家の尼公が住されており、1522年には伏見宮今日姫(三歳)が入寺されたとあり、
1922年宮内省より今日姫の事蹟を調査して、皇室御内緒寺院に指定されたとされるが、戦時中に当時の資料一式が売却されてしまった
ために実蓮寺の実態をつかむ事はできないのが残念である。
本尊の阿弥陀仏は安阿弥の作と言われていて文化財として保護したい菊の御紋の寺院であり、近くの小川の橋(日永小学校の所)は
下馬橋と言われ殿様でも馬から下りて渡ったという言い伝えがあり、皇室縁の寺で有ることは間違い無いと思われます。
織田信長時代に多くの寺院が焼き討ちされたが、実蓮寺は焼き討ちにならなかったが先代の尼様が亡くなられる前に新しい寺院に
建て替えているので寺院は古くありませんが阿弥陀仏と五重塔は文化財になってもいいのではないだろうか?
興正寺
昔は中電変電所東側にあったが、織田信長の泊城(古里城跡?)の攻撃時に焼き討ちされて消失したが、滝川一益が砦として
現在の地に再建されました。
天白川が興正寺の西側で曲がっているのは、興正寺を洪水から守るために滝川一益が川に堤防を作ったとされています。
浄土宗薬師寺
薬師寺に奉られている薬師如来座像は伊勢安国寺の奉られていたが、織田信長の伊勢攻略の際に焼き討ちされたため、
千種常陸介が焼き討ち時に持ち出して何を逃れたその後、実蓮寺に保管されていたものを薬師寺に移された。
安国寺は後醍醐天皇縁の寺で実蓮寺が天皇家と縁のある事が伺える。