日永の歴史

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紀元前300年  ー   弥生式文化の時代の遺物の縄文土器が丘のあちこちで出土している。
この頃の出土品は当時は日永小学校に収納されていたが現在では所在不明である。
また、多くの古墳や円墳も発見されているが開発が進み、今は見ることができない。
 672年
6月26日
   大海人皇子(天武天皇)、美濃で兵を挙げ大津宮(天智天皇の宮)に攻め入る途中、日永の登城山の麓を通る。
登城山は現在同じ名前の場所があるが白髭神社の上は泊の古里城跡であり、南高校のある方は日永城跡である。
このでいう登城山は日永城跡である。
800年  ー   日永村は西に岡山、登城山の丘が南北に連なり、東に広々とした田園や住宅などが続いているが、二千年もの昔は伊勢湾が参入していて、岡山の麓は波打ち際であった。
六呂見の八鳥家に保存されている日永の古地図によると、岡山の麓には船付明神と言うお宮さんがあって、昔の人が船旅の安全を祈った。
大瀬古や中ノ瀬古は一つの島であって、中ノ瀬古は潮が満ちてきたときは海中に沈んだが大瀬古は海面に出ていた。

登城山の東面下の斜面には寺屋敷があった。これは西唱寺の故地とも六呂見観音寺の故地とも言われている。
1099年  承 徳三年  日永(長)の公文書での所見は、民有年という人が三重郡司の良平宿祢が支配権を主張したのを伊勢神宮の祭主大中臣親定に訴えた手紙の民有年下文に出てきているのが最初と言われている。
 1186年  文治二年  鴨長明の伊勢記の和歌の中に「行きわびぬいざ浜村に立よらん。あさけ過ぎては日永なりけり」という和歌がある。保延元年(1135年)頃に日長里と言われていた地域が約五十年後に人家もある日永という地になった。
西行の和歌にも「梓弓春の日永の水の面に月すみ渡る天白の橋」「昨日立ち今日立ち見れば日永なる洲崎に見ゆる松の村立」等でも日永の地名が出てくる。
1203年   元久元年  平賀朝雅による平氏残党狩りによる日永城の落城。日永城は登城山の山腹にあり日永楯三郎が統治していたが平氏残党狩りにあい落城した。この時同時に落城したのは朝明郡富田舘、関町久我、西坂部城、高角城、松本城、三日城、若菜城を落城させた。
この戦争を「三日平氏の乱」という。
1568年  永禄十一年   日永村は滝川一益の支配下になった。
茶臼山の興正寺も滝川一益によって焼き払われた。
近隣の寺院(日永の興正寺・大聖院)(泊の光明寺)も焼き払われたが、実蓮寺だけは焼き払われなかった。
滝川一益の母親の墓があるためか、家紋が菊の紋で天皇家と関係があるためか解らない。

この時富田城(富田町花の木ー南部氏、中野城(中野町北条)ー中野藤太郎、采女城(釆女町北山)ー後藤采女正藤勝、古里城(泊塚原町)ー式井治部小輔師貞の各城を攻めた。
 1972年  元亀三年  日野の安国寺が焼き払われた。
1575年  天正三年   焼き討ちにあった興正寺再建。滝川一益も興正寺の阿弥陀仏を信仰した。
天白川の西を流れる水流を南に変えて興正寺を砦にしたのも滝川一益の支持による。
この堤を「滝川堤」ともいう。

日永の薬師堂の薬師如来像は伊勢安国寺に安置されていたが、兵火の中を千種常陸介が猛火の中から救い出して、日永実蓮寺に安置されていたものが明治初年に薬師堂に移された。
 1576年  天正四年  滝川一益の母堂の墓を五輪塔にして実蓮寺に祀った。
 1579年  天正七年  滝川一益に六呂見観音寺の寺領の返還を命ずる。
 1582年  天正十年  清洲会議において豊臣秀吉の司会のもと日永は織田信雄の支配下になる。
 1586年 天正十四年   滝川一益はその後秀吉の配下に入るも身を恥じて仏門に入り五分一色(福井県武生市)にて漂死した。
 1590年 天正十八年   日永は羽柴秀次の支配下になる。
 1600年 慶長五年   日永は桑名藩(本多忠勝)領となる。
 1615年 慶長二十年  日永村は 津藩領になる。(藤堂高虎)
 1619年  元和五年  泊村は日永村から離れて紀州藩領となる。
 1656年  明暦二年  日永村は天領(幕府領)になる。(岐阜笠松郡代岩田氏の支配)
 1661年 寛文年間   日永村は四日市代官所の支配になる。
1709年  宝永六年   日永村は長島藩領になる。
 1714年  正徳四年  日永村は再び天領になる。四日市代官所の支配になる。
 1724年 享保九年   日永村は郡山藩領になる。
 1746年  延亨三年  日永村は神戸藩領になる。
1769年  明和六年   大瀬古、中ノ瀬古一部、南市場、追分は神戸藩領、天白、中ノ瀬古一部は天領、泊村は和歌山藩領、日永村は天領と神戸領の相給となった。
 1801年 享和元年   日永村は再び長島藩領になる。
 1843年 天保十四年   日永村は再び天領と神戸藩領の相給になる。
1868年   慶応四年  日永村は大津県と神戸藩領の相給になる。
その後、度合府と神戸藩の相給になる。
1869年   明治二年  日永村は度合県と神戸藩の相給になる。
 1871年  明治四年  戸籍法配布。町村制実施によって(追分を含む)泊、六呂見を統合して「日永村」と呼ぶようになった。日永は日長といった時期もある。
     
 1941年  昭和十六年  四日市市に合併するまで日永小学校の門前にあった日永村役場で行政事務を行っていた。