ユダヤ・キリスト教と輪廻転生

 キリスト教に輪廻転生の思想はあるのか?

 ユダヤ・キリスト教に、輪廻転生の思想はありません。

 前世・現世・来世があり、前世のカルマによって六道を転生するという思想はユダヤ人の知らないものでした。
 ユダヤ人は死者の生まれ変わりという思想を決して受け入れませんでした。
 イスラエルとエジプトはつねに密接な関係をもっていましたが、われわれが驚くのは、それほど密につながっておりながら、エジプト的宗教観の影響が全くないことです。というよりも彼らは、死者にこだわるエジプト人の死生観を忌避していたのです。

 前世・現世・来世というのは空間的な捉え方です。ユダヤ人はこの世を時間的に捉えました。

洗礼者ヨハネ  歴史的な視点は聖書がもたらしたと言われます。

 現在は過去の結果である、と彼らは考えていました。
 ヨシュアはカナン征服を終えたとき、会衆を前にして、ゲリジム山に祝福をおき、エバル山に呪いをおきました。神に忠実であれば、祝福された未来(結果)があり、他の神々に仕えるならば、呪われた未来があるというのです。

 ファリサイ派は来世の応報を信じましたが、もともと古いユダヤ思想には、来世という考えはありませんでした。
 聖書は族長たちの死を、「彼らは先祖の列に加えられた」と表現しています。死者は、神さえも関与しないシェオールに入るのです。

 インド人は来世での応報を説きましたが、イスラエルが信じていたのは、あくまでも現世での、過去・現在・未来へと続く時間的、歴史的な中での応報でした。

 これを端的に示しているのが、ヨブ記です。
 灰のなかにすわるヨブに、三人の友人が言葉をかけます。
 彼らが言っているのはただ一つ、ヨブがかくも苦しむのは過去に犯した罪があるからである。だから、悔い改めて神に帰れ、ということでした。
 ところがヨブには、思い当たる罪がない。
 このような問答が延々と続きます。
 ヨブも友人も、正しい行いには正しい報いがあり、悪しき行いには悪しき報いがあると信じています。
 ヨブは悲惨な状態にある。故に、ヨブには隠された罪がある、と考えるのが友人たちです。一方、罪のない自分が悲惨であるのはなぜかと神に問うのがヨブなのです。

 ヨブに輪廻転生が信じられたら、いかに幸せだったでしょう。
 私が苦しむのは、前世で罪を犯した報いである。従って、この悲惨を素直に受け入れることにより、来世に正しい応報が待っている、と。
 輪廻転生には、義人はなぜ苦しむかという神義論はありません。
 前世と来世で必ず帳尻が合うようになっているからです。

 紀元70年にエルサレムが陥落したあと、一部の過激派はマサダに籠城し、3年にわたって、ローマ第四軍の攻撃に耐えました。
 ついに、ローマ軍の突入は免れないと知ったとき、指導者エレアザル・ベン・ヤイルは同志に向かって、自決を促す演説を行いました。そのなかで彼は語っています。

「われわれは(死について)インド人よりも劣った考えをもつ者なのか。もしそうなら、それを恥ずかしいと思わないのか。
 臆病風に吹かれて、父祖伝来の律法--これこそは全人類賞賛の的である--を侮辱するのか。もしそうなら、それを恥ずかしいと思わないのか。
 たとえわれわれが、物心ついたときから反対のことを教え込まれていたとしても、すなわち、人間にとって生こそが最高の善で、死は禍であると教えられていたとしても、われわれが死なねばならぬのは神のみ心であり、抗うことのできぬ必然である。だから、いまこそこのときを堅忍不抜の精神で耐えねばならない。
 なぜなら、神はすでにその昔、全ユダヤ民族に次のように警告しておられたからである。すなわち、もしわれわれが与えられた生を正しく用いないならば、その生は断たれねばならないと」(ヨセフス『ユダヤ戦記』)

 われわれはインド人のような死生観を持たない、とエレアザル・ベン・ヤイルは言っているのです。
(1999.08.01)