私的啓示

「私が本当のカトリックとはどういうものかを知るきっかけになったのは、私的啓示のおかげでした」(R.Tさん)

 R.Tさんの投稿に関係して、少し発言させてください。
 私は、キリスト教に惹かれてから受洗するまでに、25年の余かかりました。受洗に踏み切れなかった大きな(唯一の?)理由は「私的啓示」がなかったということです。というのも、それまでの私は、本当の信仰は劇的な回心がなければならない、と信じていたからです。
 聖パウロのダマスコ途上での回心、パスカルが地震と呼んだ回心、アウグスチヌスの”tolle,lige"(とれ、よめ)という声を聞いての回心…そういう劇的な精神の転機がないかぎり、本当の信仰ではないと考えていたのです。
洗礼者ヨハネ  しかし私には、いつまでたってもそういう地震(劇的な回心)が訪れませんでした。自分には宗教的な感性が欠如していると考えて、悲観的になったこともあります。
 その後、ウイリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』を再読したときから徐々に、考えが変わってきたように思われます。
 この本のなかには、神秘的体験(宗教的)の事例がたくさん出てきます。言ってみれば「私的啓示」の心理学的な集大成です。
 このような啓示を受けた人物がアメリカに多数の宗派を起こしました。クエーカーの開祖フォックスは、神の啓示を受け、裸足で街なかを駆け巡り、「血塗られたまち、リチフィールドよ!」と叫んだといいます。
 また「サウロ、サウロ、なんぞわれを迫害するか。棘あるむちを蹴るは難し」というイエスの声を聞いたというパウロに、フェストは「その博学がお前の頭を狂わせた!」と言いました。
 フォックスにとってもパウロにとっても、それは確たる啓示だったに相違ありません。
 では、私たちはその正しさをどうして見分けるのか。啓示というだけでは、判別できません。

結局、
「木はその実によって知られる」
としか言いようがない。そして、その実を知るには時間がかかります。だからこそカトリック教会は「啓示」に極めて慎重なのだと思います。
 啓示を受けた者は、それがどのようなものであれ、一種の確信ですから、だれも譲らないでしょう。
 やはり、その実(果実)によって知るしかないと思うのです。

「信仰のもといをなすものについて啓示されるべき箇条は、すでに教会によってことごとく示されている。
 それ以上に新たにわれわれに啓示されることは、そのまま受け取ってはならないばかりではなく、そこに含まれている様々の事柄をも認めないように戒めるべきである。
 たとえすでに啓示されていたことが、改めて示されても、信仰の純粋さを保つために、それが私に啓示されたから信ずるというのではなく、教会にすでに啓示されていることであるからというのでなくてはならない。」
(十字架の聖ヨハネ 『カルメル山登攀』)


(1998年頃)