思い出の手記

 何十年もの長い人生経験のうち最も印象に残っていることを、ペン持つことを長く忘れた老入会会員から、生の声を文章にして寄せてもらいました。
 「口で話をするのならいっくらでも種があるし、しゃべりたい一ぱいやけど、書けと言われるとなあ・・・・」と、固辞する人が多く、関東大震災の日、四日市空襲の日、伊勢湾台風の日、出征の日などなど、書くより先に話がはずんで、おもしろいものが出来ると思い、「それを書いてほしい」と頼んだのですが、結局やっと次の20篇が寄せられました。
もちろん旧かなづかいで、ところどころ文語調も混じり、ある古老のごときは「ね」という字を、「子」、「な」を「奈」、「こ」を「■」で表わすというぐあいで、ここにも時代の推移がうかがわれました。このままそっくり活字にしたらとも思いましたが、文意をそこねないだけに、一部加除訂正、新かなづかいと制限漢字に注意して載せることにしました。

幼時の思い出    東坂部 矢野とし子(63歳)

 私は、大正六年、旧四日市に生まれました。
 父母は、あの大正7、8年ごろの流行性感冒のため、私たち3人の子どもを残して、相次いで亡くなりました。兄と姉と私、3人きりになったのですが、3歳の時3人とも母の妹に当たる人の家へもらわれて行くことになりました。
 大きくなってから養父に聞かされた話ですが、もらわれて来る時、私は、むくみの破れを結び合わせた着物を着て11歳の兄がうばぐるまに乗せて連れて来てくれたそうです。
 物心がついてから、はっきり覚えている思い出の一つにある時、芋の切干しを姉と取り合いをして、ひどくしかられ、バケツの水を頭から掛けられたことです。また、後ろ手に縛られて柱にくくりつけられたり、御飯を食べさせられなかったりしたこともありました。
 しかし、今になって思いますのに、近ごろの世の中では、捨て子の話をよく聞きますが、よくもまあもらって下さってよかったと、感謝しています。
 私も今では若夫婦、孫2人の5人暮らしで、これからの余生を楽しみたいと考えています。
私のおいたち    西坂部 岡本政一(66歳)

 私は、三重郡神前村大字高角(現在四日市市高角町)の貧しい農家に生まれました。生まれた時は未熟児で、とても育たないだろうといわれたそうです。それがどうにか育ったものの、小学校へ入学するのも一年延期してはいったぐらいで、女の子たちにでもいじめられるほど弱い子でした。それでも学校を休むことがきらいで、よく父の人力車に乗せてもらって登校したことを覚えています。6年間に3回は皆出席賞をもらいました。
 少年時代そんなに弱いからだであったのに、戦時中は人なみに白紙(徴用令状)、赤紙(召集令状)やで、同じように務めさせていただきました。生まれつき弱いからだなので、体格のよい人を見るとうらやましく、自分をなさけなく思いました。
 第二海軍航空しょうの徴用で、志摩半島へ防空壕構築(トンネル掘り)に行っていた時のことです。もうあす1日で帰れるという日に、四日市空襲があったのです。私の家は、そのころ四日市の浜一色町、今の京町に住んでいて、父母、妻子が空襲に会ったわけです。国鉄四日市駅で降りて、何と思って家の方へ走ったか覚えがありません。市内全部焼け野原で無惨なありさまでした。幸い父母妻子は無事坂部に居ましたので安心はしたものの、着のみ着のままのまるはだかでした。
 私は、石原産業重金属研究所に務め口があってはいりました。芸は身を助けるといいますが、私は1つの特技、というと大げさですが、そろばんをはじく技術をもっていました。そのころは、割り算をするのに特別の割り算九々が普通でしたのに、私は掛け算九々でそろばんをはじくやり方を覚えていましたので、筆算でしか割り算のできない人が、私のところへ覚えに米ました。そして大変便利だといって喜んでくれました。
 その後、私は、名古屋のクリーニング店へはいって、技術を磨き、自立することを夢に一生けんめい励みました。
 そのころ、からだを鍛えるつもりで、ある行者様について行を始めました。行のお陰でからだも心も清められ、今でも信仰生活を続け、神社ではのりとを、お寺ではお経をあげて参っています。相かわらず貧之暮らしをしていますが、神仏先祖あっての私であり、生かされていることを思って、手を合わせる気持ちで毎日を送っています。
ガンの手術    三重平 石田しづ(67歳)

 昭和40年6月10日、それは私にとって忘れようとしても一生忘れることのできない思い出の日です。
 思いもかけぬ直腸ガンと診断されて、どうしても手術をしなければならなくなりました。手術をしても、はたして生きられるかどうかわからぬとあっては、一寸先は闇で、ほんとうに自分の非運をあきらめようがありませんでした。
 全身麻酔で4時間半、肉親の人たちが、どんな思いで手術の成功を祈っていてくれたか、はかり知れぬ恩愛の情が神に通じたのか、手術後一週間は、生死の堺をさまよいましたが、やっと光明を見出したのであります。日がたつにつれて回復して、いろいろ手術や手術後の様子を周囲の人たちから聞かされ、ほんとうに奇跡だったのだと喜びに胸がふくらみました。そして、世話になった方々に対し、ご恩返しをするためにも、もう一度元気にならなければならぬと、お医者様や看護婦さんのおっしやることをよく聞いて、養生に専念しました。あれから16年、多少の後遺症には悩んでいますが、今では老人クラブにも入れてもらって、感謝の日を送っています。
わらべうた    三重平 青木わさ(66歳)

 遠い遠い昔の思い出です。
 こんなわらべうたを、お友だちといっしょに歌って遊んだ様子がまぶたに浮かんで来るのです。もっとほかにもいろいろ歌ったわらべうたがありますが、たいていは忘れてしまいました。不思議にこのうただけは鮮明に記憶に残っているのです。
  
  おさん尻振りや 七振り八振り
  もっと長けりや 江戸まで届く
  江戸の若衆が とんびだこあげて
  江戸に火事あって 片羽根もえた
  
 どんな意味が含まれているのか、なにか物語り伝説のようなものがあるような気がしますが、ただ子どものころ、口拍子で覚えただけで、そのわけは知りません。
山村の音    三重平 諸岡みわ(73歳)

 このごろは家出とか、蒸発とか、誘かいとかいう事件が多く、警察の探索でたいていは見付かったり、解決したりしていますが、昔、私の村で起きた3つの行くえ知れずの思い出を書いてみます。
 田植えのあとの田回りに夕方出たまま、ついに帰って来ない老人がありました。村中が大騒動で、弁当持ちで山狩りをしたり、村々を聞いて歩きましたがわかりませんでした。10日ぐらいたってから、山中に笠だけが見付かりましたので、その山をくまなくさがしましたが、その人は出て来ませんでした。そのころは自殺するような話のない時代で、きっときつねにだまされたのだといううわさでもちきりでした。神かくしとか、人さらいなどというひょうばんの立つ昔のことです。
 もう一つの話は、一人で高野山参りをした人が、10日たっても帰らないので、この時も大騒動でした。家出する原因も何もないのに、どうしたことだろう、ひょっとするとどこかで行き倒れにでもなったのではないかと、みんなが心配していろいろ手配をしましたが、ついにそのままになってしまいました。
 次の話は戦時中の話ですが、亀山方面へ、奉仕作業に行っていた村の15・6人の人たちが、任務を終って帰る途中、菰野駅までは確かにみんな揃っていたのに、それからの帰り途で、一人だけ行くえ知れずになってしまったのです。世の中がごたごたしていた時でしたが、どんなにさがしても一向に知れないので、この時も山狩りをしたりしました。
 私の生まれた家は、昔の三重郡朝上村田光、今の菰野町田光で、ずっと西在の山村ですが、皆さんの記憶の中にもこんな話があるのではないでしょうか。
波乱の農婦    西坂部 大森ひさの(82歳)

 80歳を越えた私が、いろいろ過去を振り返ってみますと、今は機械化が進んで世の中が進歩し、お盆だお祭りだといっても、さほど日常と変りありませんが、私たちが子どもの頃は、お盆、祭り、正月は一番楽しい思い出です。お盆にはゆかたやせきだを買ってもらって、坂部の湯屋へ行き、子どもたち大ぜいが集まって、1日に何回もふろにはいってはキャーキャー騒ぎました。
 今は車時代で便利ですが、私たちの小娘の頃は2、3人づれではばきをはいて、多度まででも、湯の山の滝まででも歩いて行き、いろいろ楽しい記憶が残っています。
 しかし、楽しさの反対に、昔の人たちのほねおりは大変で、暑い炎天を大坂や墓掘りの坂を、下肥を車で引いて1日に何回も運んだり、春先には水田打ち、続いて田植え、田の草取り、9月ごろには秋の用意のむしろ打ち、そして取入れ時の稲刈り、稲こき、全部手仕事で、今の人たちには想像もつかぬ重労働でした。もみ干しの苦労はひとしおで、外庭一ぱいにむしろを敷き、もみを干してから田んぼへ行きますと、しぐれ日よりになって、急いで飛んで帰り、半かわきのもみをぬらしてはとあわててしまわねばなりません。また日が照りだすと、一たんしまったもみをもう一度干すという、空模様への心配はひと通りではありませんでした。さあその次はうすすりです。農家が順番で村の水車小屋へもみを運び、昼夜の別なく当たり番の時間だけうすすりをします。時間が過ぎると次の順番が回ってくるまで待つのです。こうして秋の仕事がかたつきますと、冬の夜は男はわら仕事、女は縫いもの、薄暗いあんどんの灯の下で夜遅くまで続きました。母の手にはあかぎれにはるこうやくが絶やされませんでした。昼は昼で、春のごをかく下刈りをして、一年中のふろたきのしば刈りをしたり、ごをかいたりしたものです。また、春、夏、秋と3回の養蚕は大変な心使いの仕事でした。雨模様の日の桑摘み、室内の温度調整で、ゆっくり食事もとれぬほどでした。食事といえば年中麦飯にみそ汁につけもので、たまにさんまかひよごを喜んでいただくぐらいでした。
 私は21歳で四日市の親類の世話で、京都の人で東京に勤めている人と結婚しました。ところが、夫が首に肉腫ができ、大学病院の院長さんにも見離され(今思うと癌だったのでしょう)東京を引き払って京都へ帰りましたが、なんとか直ってほしいと、大阪の山奥の妙見山におこもりをしました。そして、私は一生けんめい滝に打たれて水ごりをし、看護をしたのに、むなしく世を去っていきました。その時、おなかには今の子をみごもっていたのです。私は両親のもとへ帰って出産しました。親たちは若い私を再婚させようとして、子どもを手離す話が持ち上がり、私は末のことも考えず、親の言いなりに子どもを親せきの子のない家へやりました。しかし、再婚の話だけはどうしてもその気になれず、ずっと今の甥(おい)の家、つまり生家に世話になって生きて来たのです。他家へやったむすこは、戦後復員して来て、自分の育ての親が亡くなったあと、私を何度も呼び寄せる話をしてくれましたが、こちらの甥がわが子のように大事にしてくれますので、いつまでも世話になるつもりで、安心して暮らしています。むすこからも、大阪から時々電話をかけてくれます。
楽しかった思い出    東坂部 館たず(82歳)

 今を去ること20年、東坂部むつみ会の旅行、長良川の鵜飼(うかい)見物の日の思い出は忘れられません。途中いろいろな社会見学をしました。まずCBC放送局で、テレビやラジオの場面や設備を見て、次に名古屋城の偉大で美しい建て物と、金のしゃちほこを仰ぎ見ました。岐阜にはいって金華山に登り、そして予定の時間に目的地へ到着、ちようど5時過ぎに、あこがれの遊覧船に乗りこみました。「鵜飼・鵜飼」と話には聞いていましたが、その風景、その感じ、なんと表現するかその言葉もありませんでした。全く想像以上でした。ポンポンと打ち上げられる花火、赤い火、青い火、色とりどりに水鏡に映って、まるで竜宮城へでも来たような錯覚を起こしました。また、かがり火とともに鵜(う)があゆを取る実演もまのあたりに見せてもらい、なんと楽しい楽しい1日でした。伝統を誇るこの鵜(う)飼を見物することは、私には初めてのことで、終生忘れることができません。帰りのバスの中では、思い思いにのどを競う歌が出て、にぎやかでした。こうした1日の行楽を、婦人会の方たちも、むつみ会の方たちも、是非昧わってもらい、私のように年寄ってからのよき思い出にして頂きたいと思います。
叙勲を受けて    三重平 川端君子(65歳)

 昭和54年10月30日、突然新聞社から電話があり、「来る11月3日の文化の日に叙勲を受けられる由、写真を1枚とらせてほしい」とのこと。自分でも全く考えなかったことですし、夢のような心待ちでございました。
 中日、朝日、毎日、読売と、各社こぞって私のような者の写真をとり、11月3日の新聞紙上に大きく掲載されましても、まだまだ実感が湧きませんでした。
 一口に23年といいましても、それは長い間のいろいろの積み重ねでございました。私は、老人施設の一寮母として、ただ一筋に毎日毎日、淋しい老人のお世話に明け暮れて参りました。時には共に笑い、共に泣いたことも数知れません。自分の子どもの養育よりも、頭の中はいつも老人との心の触れ合いを願う気持ちで一ぱいでございました。こちらの心がわかって頂けた時、何よりもうれしく、辛い仕事の苦労も一度に吹き飛んでしまいました。その方たちのことは、今でも心の底に焼きついています。当直、夜勤の連続で、急に状態が悪化した方、また、老もうの方など、ベッドにつききりで幾晩か過ごしたこともございました。安らかに大往生された時、その顔つきはほんとうに仏様が笑みをたたえられたようでした。身なりを整えてあげ、髪をすいてあげる時、この方の苦労多かりし人生も、今私の手でねんごろにみとってあげることができたことを本望に恩いました。
 こうして私は長年にわたって老人福祉一本で過ごして参りました。
 思えば満州からの引き揚げの途中で、主人を{」くし、5人の小さい子どもの手を引き背負って、佐世保へ着いた時、「やっと内地の土が踏めた。もういつ死んでも悔いはない」と思い、ふいてもふいても涙があとからあとから出て参りました,
 それから終戦直後のきびしい世の中で、何の技能ももたない私が、皆様に助けられて、やっと就職することが出米ました。お世話になった方たちに恥ずかしくない仕事をしようと決心し、自分自身にきびしく勤めて参りました。勤続23年、昭和53年に退職、今は老人クラブに入会させて頂いて、心楽しい毎日を送らせて頂いています。
 その矢先、叙勲のお達しがあり、昨年11月9日、宮中の豊明殿で天皇陛下に拝謁を賜わり、暖かい励ましのお言葉を項きましたことは、感激のきわみでございました。少しも気取られない、親しみ深い天皇陛下、これからも仰せの通りからだに気をつけて、少しでも社会のお役に立てれば幸せと、心掛けていきます。それが今まで受けた皆様のご恩に報いる道と恩います。
一代の夢    東坂部 村田よつ(78歳)

 今は「三重小学校」といいますが、私たちのころは「三重尋常高等小学校」といいました。尋常科6年生を終って、全部に卒業証書をもらい、男性はほとんど高等科へ進みましたが、女性はわずか6人でした。高等科を卒業してからは、農業、養蚕の手伝いをし、冬には近所のお寺へ針仕事を教えてもらいに行きました。
 その後結婚し、いろいろさまざまな社会の荒波を乗り越えて来ました。
 長い一生のうち、一番心に残っている思い出に、皇居動労奉仕のことがあります。それは昭和39年9月28日から、10月1日までの4日間でした。初めに国会議事堂を拝観させてもらい、木村代議士の奥様を囲んで記念写真をとり、それから九段会館で宿泊しました。翌朝8時30分に皇居にはいるときは、厳重に人員を改められて作業にかかりました。ある時は宮様の御結婚式に御使用の器を洗わせて頂き、その他、草取り掃除など、わき見もせずに働きました。一番うれしかったことは、天皇皇后両陛下のお出ましの時、私たちの働く様子を写真にとって頂き、皇后陛下から「おからだを大事にして下さい」と、お情け深いお言葉を賜わり、なんとも知らず感じ入りました。また、東宮御所へもやって頂き、皇太子様御夫妻からは、「ご遠方のところをご苦労さま」とのお言葉を頂戴し、申し上げようのない感激で一ぱいでした。
 奉仕の日程が終って皇居を出る時も、人員調べがあって、私たちは帰路につきました。それが新幹線開通2日目で、初めて新幹線に乗って帰りました。往復のきっぶも全部責任をもって頂いてありがたいことでした。4日間の行き届かぬ奉仕ではありましたが、私にとっては一代の夢でありました。
あの日私は    西坂部 小山文栄(73歳)

 昭和20年6月18日、あの日、あの夜、ただならぬ空襲警報に、主人はいち早く勤務校の奉安殿守護に飛び出して行った。
 私は、小六・小三・小二の娘に、リュクサックと防空ずきんをつけさせ、横の空地の防空ごうへと向ったが、その夜の状態はとても防空ごうではあぶないと察し、長女を先頭にして二女と三女の手を引き、海蔵川堤防に向って走った。同じ道を黙々としておおぜいの人が続々と列をなして走った。低空に響く爆音に、「伏せよッ」と私が叫ぶと、同じ道を走っている人たちが一斉に伏せる。「進めッ」で、また一同が走り出す。そんなことを何度も繰返して、やっと海蔵川の堤防に着き、草原に伏せて4人が息を殺して爆撃の済むのを待った。夏ぶとんをかぶって目をつぶっていると、焼い弾落下の一種独特な気味悪い音がひっきりなしにして、生きた気がしなかった。
 ようやく夜が明けそめて、爆撃が終ったらしい様子に、そっとふとんをとってみると、すぐそばに夫婦らしい男女が、直撃をくらったのか死んでおり、ご飯のかままで積んだリヤカーが残っていた。よく見ると、あたりの雑草まで焼けこげた跡があり、もう少しであぶないところだったとゾッとした。
 四日市の町は見渡す限り火と煙におおわれて、熱気が私たちの居る所まで伝わって来た。新築して10年の私たちの家も、当然全焼しているに違いないが、足がすくんで歩けないのと、どの道を行くにしても熱気でとても戻れそうにない。気の強い二女が、「見てこうに」と立ち上がるのに勇気づけられて、すそもとが焼けるような熱い中を戻ってみた。完全にまる焼けで、二階に積んであった畳が、そっくりそのままの形で焼け落ち灰になっていた。茫然と立ちすくんでしばらく眺めていたが、思い切ってこのあたりがかまどのあった所と見当をつけて行ってみると、そこに、ゆうべじゃが芋が蒸してあったかまが出て来た。かまの中には、じゃが芋が上の方半分が炭のようにまっ黒にこげていたが、下半分はちょうど手ごろの焼芋になっていた。それを三人の子どもに食べさせながら、かって申し合せてあった山之一色の、夫の姉の家へたどりついた。
 夫は夫で、私たちをさがしてあちらこちらを尋ね歩き、私だちよりあとから姉の家で落ち合った。親子手を握り合って無事であったことを喜んで泣いた。
悪夢の一夜    東坂部 一海喜之丞(77歳)
  
 あれは昭和34年9月26日、忘れもしない伊勢湾台風の日、私は勤務先の東海ガス化成の夜勤の番に当たっていた。台風情報ではどうやらこちらへ向かいそうな予感がしていたが、午後になっていよいよ風は強まり、とても出勤時間まで待てず、午後3時15分の国鉄行きのバスに乗った。乗客はさすがに少なくわずか5、6人。その頃は今の阿下喜線ではなく、旧道を小杉前から横手道を通るバスであった。横手道ではもろに横風を受けて、バスが浮くような感じでひやひやした。ようやく近鉄駅前で降りたとたんにバスは運行停止。近鉄も台風の前触れで動かず、工場へ行くことも、家に帰ることも出来ない。駅の放送を聞くと、最大45メートル、瞬間風速60メートルといっている。しばらく考えていたが、「ええい。人間が45メートルの風の中を歩けるかどうか、行けるところまで行ってみよう。」と、腹を決めて、用意のかっぱで身を固め、思いきって風雨の中へ飛んで出た。町の家々はどこも戸を締めて、中から釘を打つ音がカンカンと聞こえていた。押し倒されそうになるからだを斜めにして、あるときは吹き飛ばされそうになり、あるときは一歩も動けなくなり、風に押されて前のめりに走り、ようやく大井の川の橋まで来た。橋を渡るのが大変で、途中で何度からんかんに押しつけられた。海山道では、道に電柱が何本も倒れていて、その下をくぐってやっとガス化成の工場にたどりついた。工場には奥山君が一人居た。休息するひまもなく、奥山君と二人で人口に机を積んでバリケード作りである。次がポンプのモーターに水入りしないように吊り上げ作業である。これは、13号台風に水入りの経験があるので、その対策は平常から話し合いがしてあったのである。変電所へ電話を入れて風速を尋ねてみたら、「最大は60メートルを越えてもう峠かも知れぬ」という返事であった。その時、突然バリバリッと音がして、高さ40メートルの避雷針が折れて高圧線を切断。停電でまっくらになる。幸いに動力線は地下ケーブルなので送水に支障はなかった。
 いよいよ風は強まり、ガラス戸もはずれそうで気が気でなく、トランジスタラジオは、「満潮と重なると大変だ」と報じている。書類その他の重要なものは全部高い所へ土げてしまってあるので、このまま風が収まるのをじっと待つばかりである。そっと外をのぞいて見ると、雨はたたきつけるように横なぐりにガラスを鳴らしている。
 ふと見ると、入口のガラス戸のすきまからチョロチョロと水が浸入している。「アッ」と驚いている間に水かさが増して、ガラス戸の腰板を押し破って、ドッと濁流が押し入って来た。みるみる足首からひざ、ひざから腰までと水漬けになって、完全にお手上げの状態になってしまった。実は、大丈夫と思っていたもう一台のモーターも、奥山君と二人で吊り上げておくべきであったと後悔したがもうどうしようもなかった。
 朝になって、交代の人が来てくれたので、家のことも心配で、疲れた足を引きずりながら帰った。帰りの道は、電柱は倒れ、電線がぶらさがり、あまりの被害に驚いたが、あとで聞くと、桑名、長島方面が特に被害甚大で多くの犠牲者が出たとのこと、ほんとうに悪夢の一夜であった。
あの日私は    東坂部 館しか(67歳)

 その後みんなの意見で、「思い出の手記」と変りましたが、最初は、会長さんから、「あの日私は」という題で書くように、お話がありました。「あの日私は」−−会長さんらしい思いつきだと思いました。そこで、私は、おかしなおかしな「あの日私は」を、書いてみようと思いました。
 三月の中旬というのに、その日は朝からうすら寒い日でした。予定日までまだ2週間もあるはずなのに、どこやら膚に妙な気配を感じていたのです。午後五時ごろ、下腹部がにごにごと痛みだしました。これは大変と、お隣のおばさんにお願いをして病院へかけこみました。
 院長先生、看護婦さんに迎えられて、すぐ分べん室にはいりました。
 痛みはだんだんひどくなり、5分、3分と断続的にはげしくなってきました。院長先生に、「もうひと息」と励まされて、苦しい息の下から、3年間子宝に恵まれなかった私が、今こうして新しい生命を得られるのだと、渾心の力をふりしぼって、喜びと苦しみと紙ひと重の思いで、やっと3月14日午前1時40分、オギャーのひと声で長男が生まれました。「腹を痛めた子」と申します。今はもうその長男も二児の父親になって、楽しい家庭づくりに懸命ですが、ふり返って思うとき、人生ってほんとうに短いものと思います。初めて病院で長男を抱き上げたときのことを思うと、「あの日私は」と、ひとりでにほほえむ私です。「親バカ」とも言いますわね。
酢の効用    山之一色 服部秀一 (79歳)

 私は昔、父母から「年をとると酢がからだによい。年中いつでも酢のものを食事のあとで用いるとよい」と、聞かされた記憶があります。
 栄養研究家の長田正松氏は、「疲れを直すには酢に限る」という説を唱えておられます。これは、消化理論により、昭和28年にノーベル賞を受けたイギリスのクレーブス博士の学説を根拠に、食物は体内で燃焼して、最後に炭酸ガスと水になる。その燃える前には、必ずいったんは酢になるというのであります。疲れは、その燃えかす(乳酸)であるから、体内に酢があればよく燃えるために、かす、つまり疲れは残りません。
 酢は2時間たったら効きます。小便を見て下さい。きっと澄んでいます。
 しかし、それなら酢をガブ飲みしたらよいかというと、それは刺激が強すぎてからだによくないし、また飲めるものではありません。砂糖を入れてうすめて飲みやすくして飲むか、料理で酢のものを多く作るようにするとよいと思います。
 その他の効用はたくさんあります。
  1、ご飯をくさらないようにするには、たく時に酢を少したらす。
  2、酢を塗った網で魚を焼くと網がこげつかない。
  3、カラシに酢を少量たらすと長くもつ。
  4、ごぼうのアクで汚れた手は酢で洗う。
  5、魚料理の最後に酢を少したらすと生くさくない。
  6、塩気の多いものに酢を少量たらすとやわらぐ。
  7、大根おろしにちょっと酢をたらすと辛さがやわらぐ。
  8、ひやむぎのつゆに、ちょっと酢をたらすと昧がよい。
心に残る言葉    山之一色 服部ゆきゑ(78歳)

○暗い夜のあとには明るい朝が来ることを信じて生きたい。くよくよ生きるのも一生、さわやかに生きるのも一生。(秋山ちえ子)
○どんな大嵐の日にも時間はたつ。=「マクベス」(芹川比呂志)
○漁夫は生涯竿一本。私は竿をペン一本に置き替えています。(有馬頼義)
○春風もって人に接し、秋霜もって自らをつつしむ。(佐藤一斉)
○何事においても万全を期し、悔を残さざること。(伊東深水)
○人の短を言わず、己れの長を説かず。(入江徳郎)
○母校の光を負うな、母校に光を加えよ。=「枡目信夫よりの教訓」(池田弥三郎)
○人間の価値は、その人がいかに最善を尽して生きたかということです。(岩谷時子)
○一生を通じて一つの目的のもとに進みなさい。それは手の届かない高いところにおいて。=「母に言われた言葉」(江上トミ)
○足るを知る。(唐島基地三)
○あすはあすの風が吹く。=「風と共に去りぬ」(森光子)
○人を感心させる歌を歌えるのはそれほどむずかしくないが、人を感動させる歌を歌えるのは数えるほどしかない。(藤原義江)
○誹談すべからず、雑談出でなば居眠りで労をいやせ。(芭蕉)
○ほめる時は人前で、叱る時は他人の居ないところで。(牧田与一郎)
○まことの時人を動かす。(町春草)
○おとなは誰も初めは子どもだった。しかしそのことを忘れずにいるおとなはいくらもない。(真鍋博)
○身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。(三浦推一郎)
○ゆさぶりがないと味がおちる。(木島則夫)
○家の中に貯えた材は散じても、身に貯えた材は散じない。(庄野けん三)
○相手の立場に自分を置いて考えなさい。してあげるべきこと、してならぬこと、みなよくわかります。=「母の言葉」榊原■)
○天が下に万事に期あり、生きる時あり、死ぬる時あり。善を行なうより他よきことあらじ。=「伝道の書」(板西志保)
○世に完全ということはない。これを完全ならしむ人の努力こそ世の至宝である。=「松永安佐工門から私へ」(杉山吉良)
○天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに遅れて楽しむ。=「父よりの言葉」(中村ハ大)
○人生とは教えを残す事にあるのではない。ただ歩いて行くのみだ。=「徳川夢声」(中村メイコ)
昔の人の言い草    山之一色 服部はる(86歳)

○お正月はめでたいけれど、めいどの旅に近づくばかり、哀れうれしき老いの暮れかな。
○千里の道も一歩から、大海の水も一しずくから、ゆっくりやわやわ行きましょ
○人をそしれば穴二つ、人をほめれば宝の山、口をつつしむが人の道。
○きのうは人の身の上も、きょうはわが身にふりかかる。あした待たるる宝船。
○天から降り来る恵みのつゆ、自然の法則ありがたや、ありがたや。
○雷さんがへそ取りに、来るからはいろうかやの中。
戦友に応える    御館 桑原賢一(65歳)
  
 ある日突然変な光景に出くわした。兵は演習に出た昼下がりでありである。中隊に戻った私は一瞬立ち止まった。平尾軍曹(そう)が、ひとり壁に向かって座禅を組み、一心不乱の形相で呪(じゅ)文を唱えているのである。私はそっとその場を立ち去った。あとで聞くと平尾軍曹は国鉄マンで、人の占いを見ることで有名であるとのことであった。何しろ自分の名前が元昭(もとあき)であるのを、姓名判断が悪いといって元照と改めて「もとあき」と読ませていた。それは大阪信太(しのだ)山の廠舎で、戦地への出動を待っていた時のことである。折があって私もこの平尾軍曹(そう)に八卦(け)を見てもらったことがあった。「弾(たま)丸は当たりません」というので喜んだら、八卦(け)が当たらぬということだというのでがっかりした。そのかわり病気のことならわかる。あんたは来年(27歳)が最悪の年で、九分九厘だめだ。その時が越せば長生きすると言ってくれた。この占いが奇しくも的中したことは不思議というべきである。
 数旬の時が流れ、いよいよ出陣の日が来て、行く先わからずで乗船したのは宇品であった。船団は二隻、加茂丸に波之上丸である。私の乗ったのは加茂丸で、祭神は京都の加茂神社で、東郷さん乃木さんが欧州へ渡航された時の船であると聞いた。島々を迂回し、あるいは同じところを一日も二日もぐるぐると回って、一か月もの長い間海の上にいた。そしてようやく着いたところはラバウルであった。もう一隻の波之上丸は、湾口数時間手前のところで、敵の潜水艦のために撃沈された。ラバウルは南緯六度ばかりか、南十字星の輝く美港である。港は左に活火山、右に休火山の馬蹄形をした湾で、伊勢の二見が浦をジャンボ化したような夫婦岩があった。われわれは百隻近い湾内の艦船と敵機の応酬の間隙を縫いながら、やっとの思いで上陸に成功した。そして湾口松島に高射砲陣地を敷いた。
 毎日定期便350機がブカ島経由でやってくるのを射撃するのであるが、撃ち合いのあい間に、アンペラ張りの兵舎の一室で、平尾が壁に向かって座禅を組んでいる姿をよく見た。
 炊事場の横に大きな深い穴を据り、残飯処理場としたが、それがおもしろいことに、簡易豚取器にもなった。葵(あおい)のような花の咲く、いちじくのような木にロープを渡してわなを作り、よく豚がこの穴に落ちこむのを取っては料理して食べた。あの昧は生涯忘れられない。しかし、カナカ土人によく文句を言われた。
 こんな毎日が幾日も続いたが、ある日中隊長の今堀義積(よしずみ)中尉が戦死した。今堀中尉は同期の甲幹で、撫順の禅寺の和尚であった。私たち同僚仲間では「義積和尚(ぎせきおしょう)」と心安だてに呼んでいた。
 そのうち変なうわさが流れて来た。それは加茂丸が沈没したといううわさである。われわれを運んでくれた愛船である。私は平尾軍曹を呼んで、加茂丸の安否をみてくれるように頼んだ。ちょうどその時、野防司(野戦防空隊司令)の後藤曹(そう)長も居合わせていた。平尾は、「だめだ。どうもおれの卦は合わん。何度立てても加茂丸は沈没していない。健在だ」というのである。
 2日後、なつかしの加茂丸は黒煙をあげて入港して来た。後藤曹長はあとで私に、加茂丸健在のことはすでに情報で知っていたといい、平尾の占の適確なのに驚いでいた。
 3中隊は同船で死の海ソロモンの前線へと進んだ。私は半月ほど遅れて王洋丸であとを追った。39度の熱病と戦いながら火砲の積載もした。
 船底で同郷の加藤(御館の加藤治夫君、朝鮮部隊)と会ったが、お互いにやつれた姿ですぐには加藤とは知れず、加藤も私とは思えなかったらしいが、双方そばの兵隊に尋ねて確認し、「オイ桑原」「オオ加藤」と肩を抱き合った。
 ガダルカナルは全滅した。ムンダ島の飛行場の六の高地に上陸し、戦闘は白熱化した。中隊は半減、衣類はボロボロ、装具はふっ飛んだ。その上艦砲射撃の洗礼である。
 私は、疲労と黒水病(血が決壊する恐しい熱病)で、用足しの途中倒れ、昏睡(こんすい)状態となり、冥土(めいど)の観光見物、担架に揺られて行くうち、椰子(やし)の葉っぱの動きで気が付いた。それはコロンバラ島であった。
 時は流れた。マニラでの療養後、再び前線ラバウルに戻された。そこでショッキングな話を聞かされた。今は生還して北小松町にいる堀隆義君からである。
 「平尾は死んだ。敵が上陸して来るところへ、お前の日本刀を持って切りこんだのだ。しかもお前の戦時名簿を首にかけて。」
 あるいは私の戦時名簿は、オーストラリヤ籍に転記されているのではなかろうか。
 それにしても平尾軍曹の占い通り、九分九厘だめだと言われた最悪の年を乗り越えたのだから、長生きすることも占い通りにいくだろうと思っている。
終戦前後の思い出    生桑 加藤英雄(67歳)
  
 昭和18年11月中旬、臨時召集を受けて、中部第20部隊にはいった私は、12月2日、満州国ハルピン市郊外の満州第6262部隊に入隊しました。
 一期の検閲を終了した後、中隊事務室勤務を経て、大隊本部の功績係として勤務し、そのまま昭和20年の8月を迎えました。
 大隊本部の事務室内に勤務の関係上、夜間にはラジオを通して、日本本国からの放送を直接聞くことも出来ました。
 「警戒警報発令、紀伊半島上空より進入の敵機数機は、伊勢湾上空を経て名古屋方面に向い北進中」など。
 戦況は春以来日ましに悪化の一途をたどり、8月9日にソ連の参戦が報ぜられると同時に、夜になるとソ連の飛行機がハルピン上空に飛来し、照明弾を投下するなど、事態は一挙にひっぱくの様相を呈して来ました。
 その日以来、わが部隊においても、軍事極秘の「陣中日誌」の焼却にとりかかりました。あいにく連日雨の降る中で、軍事極秘の重要書類を、一枚一枚ほぐしながら、秘密のうちに焼却しなければならず、他方、数キロ隔った友軍部隊では、次々と弾薬庫を爆破するごう音がとどろき、いよいよ戦況緊迫の思いが感じられるようになりました。
 8月12日、ハルピンまで命令受領に行った将校の自動車が満軍の反乱銃撃に会うような事態も発生するようになって来ました。翌13日であったと思うが、関東軍司令部から、わが独立輜重(しちょう)兵大隊に、「直ちに南満州通化の線に南下集結待機せよ。」との作戦命令が発せられました。部隊全員てんてこまいで、弾薬、糧秣(りょうまつ)、衣服等を車両に満載し、馬に引かせてハルピンに向いました。
 応召以来約2年、住みなれた部隊兵舎を、全く放棄同様の状態での出発に際し、「各人欲しい物は酒、タバコ、甘味品、その他何でもやるから、持てる限り持って行け。」とのことであったが、そうたくさん持てるものではなく、また、隣接の兵器廠(しょう)には兵器、弾薬放棄のまま、貨物廠(しょう)や被服廠(しょう)にはたくさんの貨物、被服が野積み山積みのままの姿を左右に見ながら、炎熱下の草原をハルピン目ざして輓馬(ばんば)の強行軍をさせられました。
 行軍中、ハルピン郊外の飛行場には、木製実物大の模擬飛行機が並べてあるのを見たり、満軍の反乱によって、日本人警察官が投獄させられたことを聞いたり、また、市街地では在満日本婦人会員が、白はちまき姿で竹やりの猛訓練を受けているのを見るにつけ、日本車の前途に一まつの不安を直感したのも、今でこそ言える偽らない事実であります。
 ハルピン駅頭に到着したわが部隊は、休むひまなく直ちに、馬、車両、弾薬、糧秣(まつ)を積載し、南漢に向って転進行動に移りました。ハルピン駅頭にあった伊藤博文の銅像に別れを告げることもなく、夜のハルピンを後に、夜行軍用車は一路南満通化へ向って南下を続けました。
 無蓋(がい)車、有蓋(がい)車混合連結編成の貨物列車のこととて、人の寝る余地などあるはずがなく、各人思い思いのすき間を見つけて、一夜を不安のうちに過ごしたことが思い出されます。その間も満軍兵士の反乱逆襲、漢人の暴動襲撃が各地で起こり、われわれの列車が襲われる可能性も多分にあり、不寝番の監視を立てて、まっくらやみの広大な草原をひた走りに走り続けました。そして、列車が新京(長春)へ着いたのが8月15日の朝でした。
 新京駅構内で小休止の後、更に走り続けて列車が吉林の駅に止まりました。その時、北鮮、南満国境方面から避難の現住民を満載して北上する列車に出会いました。超満員の上に、爆撃の破片を受けて片腕が今にもちぎれ落ちそうな血だらけの人も乗っていました。両方の列車が停車している間に、こちらの軍医や衛生兵が、これらの負傷者に応急手当てをしてやる光景も見られました。そして、その時です。われわれが初めて耳にした言葉が、「日本が戦争に負けた。」「日本がとうとう無条件降伏をした。」とのこと。われわれには信じられない言葉でありました。
 しかし、それはほんとうでした。私が日本の敗戦を知ったのは、昭和20年8月15日午後2時から3時の間であったと思います。これこそ、聖戦に名を借りた東條内閣が、多くの日本国民を犠牲にしてぼっ発させた大東亜戦争のみじめな終えんであったのです。部隊全員が自暴自棄、あたかも夢遊病者のような放心状態に陥って、ようやく目的地通化の線にたどりついたのです。
 幸いにして命ながらえて終戦を迎え、その後朝鮮の平壌に1年、更にソ連中央アジヤのウスベック共和国に約2年、合計3年間に及ぶ俘虜(ふりょ)生活を経て、祖国日本に復員したのが、昭和23年7月末のことでありました。俘虜(ふりょ)生活の辛苦については、またの機会に稿を改めることにします。
 終戦後35年、今にして思えば、戦争の犠牲はあまりにも大きく、いかなる理由があろうとも、二度と再び戦争などに参加すべきではないことを痛切に感じます。今日、このように平穏無事な日常生活が営まれ、ぜいたくな日暮らしの出来るのも、その陰に、幾多の尊い戦争犠牲者のあったことを忘れてはならないと思います。戦争の無惨さ、残酷さを知らない今の若い人たちも、いかに平和がたいせつであるか、ありがたいものであるかを、十分理解認識し、再び戦争のあやまちをくり返すことのないよう、肝に銘じて後世に伝えてもらいたいと思います。
 莫大な数の戦死者、戦病死者、被戦災者の霊のご冥福をお祈りしつつペンをおくことにします。
あの日私は    御館 伊藤章(67歳)

(その1)
 太平洋戦争も末期の昭和19年12月7日、突然東海地方を直撃した東南海地震の恐しさ、いまだに忘れることの出来ない思い出の一つです。
 私は当時三重小学校(国民学校)に勤めており、その日、校医だった村田栄一先生の葬儀に参列し、河合校長と私は江田神社の祭社に出席するため、急いで自転車を飛ばしていたのです。戦前から戦中にかけては、神社の祭礼にはその字の学童が拝殿前に整列して、祭典に参加することになっており、ことに戦時下のことで、戦勝祈願のため一そう重視されていました。その日は、たまたま校医先生の葬式と重なったので、子どもたちは先に神社へ集まっていました。祭典に間に合うようにと急いでいますと、ちょうど川向の田中屋さんの前あたりで、突然自転車の加減がおかしくなり、ハンドルがグラグラッとして、後ろから何かにひっぱられるような妙な衝動を受け、とても乗っておれない状態になりました。「地震だッ」と思ってよく見ると、道路がうねうねと波打っています。とっさに「校長先生」と叫んで、あとはなんと言ったか、また河合校長がなんと言ったか全く覚えがありません。いきなり自転車を投げ出し、すぐそばのあぜにしりもちをつくようにしゃがみました。まわりの家の屋根が大きく揺れています。雨戸がはずれる、物が落ちる。「ワーッ」と異様な叫び声で人々が家から飛び出して来ます。相当長い間揺れていましたが、ようやく収まりましたので、「宮さんの子どもたちどうしているだろう、心配だ。」と、二人は投げ出した自転車のハンドルを持って起こしました。その時、ふと見ると、今まで東洋一?を誇っていた石原産業の煙突が、まん中から上がなくなっていました。まっ二つに折れたのです。
 神社へ着いてみると、石燈ろうが無惨に倒れています。子どもたちがドッと私たちのまわりに集まって、まっさおな顔でおし黙っています。村のおとなの人に、「石燈ろうの近くに居なかったのでよかったです。」と言われてほんとうによかったと思い、ホッとしました。
 この東南海地震は、東海地区の航空機工場に大損害を与え、これが一層敗戦に拍車をかけることになったのです。
(その2)
 毎日のように続く空襲警報。まっくらやみの中でもすぐ手に取れるように、鉄かぶと、巻ききやはん、戦とう服をまくらもとに置く毎晩でした。
 昭和20年6月18日の夜、寝についてようやくとろとろとしたところへ、不意の空襲警報に飛び起き、身支度している間に、はやごうごうたる爆音はまぎれもなくB29に間違いない。いつもとは違い、地獄の底からうめくような異様なごう音に、いよいよ来てはならないものが来たという決意で、家のことは父にまかせて、私は一目散に学校にかけつけました。
 途中何度か真上に迫る敵機に、道ばたの石垣、家の軒下に身をひそめてはやりすごしました。東坂部、小杉方面の麦田(当時は一面に麦が作られ、ちょうど収穫時だった)に、火の雨−−焼い弾−−が降り、山之一色方面に赤く火の手の上がるのが見えました。
 学校に着いてみると、新任のK先生ただ一人、直ちに奉安殿をあけ、防護袋に御真影(両陛下のお写真)を入れ、校長、その他の先生の未るのを待ちました。
 敵は容赦なく、四日市市街地は低空で焼い弾を落とし、三重小学校上空あたりで高度を上げ、やがて旋回して海上に出てから、また市街地を襲うというくり返しのようでありました。
 先生たちが集まってから、御真影は刑部神社に避難し、先生たちは運動場の東側で待機することになりました。爆音のものすごさにからだは緊張でコチコチ。もし校舎に焼い弾を落とされたらどういう処置をとろうかと、うわずった声で話し合いながらも、上空の敵機を目で追うのが精一杯でした。東方市街地は文字通り火の雨が降りそそぎ、各所からパッパッと火の手が上がり、燃えひろがって見る間に一面火の海と化して行くのが手に取るようにわかりました。この運動場でも、新聞が読める?ほどの明るさであったように感じられました。
 ずい分長い間でした。時間の経過が遅く、1時間が3時間にも5時間にも思えました。幸いにして校舎は助かり、やがて敵機は飛び去って行きましたが、四日市市街の火は天をこがすように燃えさかっていました。
 市街地へ続く道は、避難する人の群でごった返し、異様なざわめきと、黒い影がうごめいて移動して来るのです。海蔵小学校の先生が、御真影の防護袋を背負って避難して来られ、聞けば海蔵川の中をずぶぬれになって渡って来たのだとのことでした。
 取りあえず講堂を開放して、避難して来た人たちにはいってもらいましたが、一家離散の人や、けがをした人や、泣き叫ぶ子連れの人や、目もあてられぬ光景でした。
感謝の思い出    小杉 舘五郎(80歳)

 昭和19年7月、祭7370部隊(歩兵第51聯隊(れんたい))(聯隊は連隊と跨かなければならぬが連隊ではピンとこない)ビルマ派遣補充隊要員として、あの胸にじんと来る「海行かば」の歌声に送られて、私は車中の人となったのである。
 下関から乗船、台湾高雄−−マニラ−−仏印カムラン−−西貢へと進む途中、敵潜水艦の攻撃で僚船一隻が撃沈されたが、幸い魚雷の攻撃を受けることもなく、西貢から屋形船でメコン河をさかのぼり、カンボジヤの首都ブノンベンヘ。それから鉄路バンコックヘ。バンコックから衆縁鉄道でビルマ領のモールメンを経て首都ラングーンヘ着いた。それからは主として夜間行動で、やっと祭51部隊集結地のウントに10月下旬着くことができた。昼間は敵機の銃撃に会い行動不能、直ちに反転作戦、以後イラワジ作戦でヒンミ、カベット、カンパニヤウンからマンダレー作戦に参加。それからは昼間は敵を避けて休養、夜間行動で退却することが多くなり、山地ヒルの谷、山焼きの煙の中を谷川の丸太一本橋など、よくも過ごして来た。」とと思い出す。シャン高原をアンパンヘ来て、ここで聯(れん)隊改編があり、わが12と11中隊をもって5中隊とし(隊長吉森中尉)私たちマラリヤ患者3名は衆国チェンマイ病院へ入院を命ぜられた。その間にわが関係部隊将校13名戦病死(うち聯隊長はカンパ、マングレーで戦死)終戦までに5人の聯(れん)隊長を迎えたほどである。私たちは工兵隊のふねでサルウイン河を渡河、山道を泰国病院へ移された。
 戦線に戻ってからの戦闘は殊に激しく、食なく兵器弾薬医療品もなく、乾期に遭遇したので飲み水に不自由を感じたので苦しかった。加うるに地図もなく、無い無いずくめのみじめな状態の中で、更に病魔は地に満ちて、マラリヤ、アメーバー、赤痢等で悩まされた。
 話があと先きするが、終戦後帰還して、あの藤原小野田セメントの鉱石爆破音に戦地を思い出じ、山鳩の鳴き声で蛸壷(たこつぼ)の塹壕(ざんごう)生活をふと思い出してはゾッとした。
 ともかく空には敵機、地には戦車、それも最新式近代兵器に追われ、ただ靖国の神となる日を待つばかりであった。
 こんなみじめな毎日の中で、ありがたいと思ったことは、ビルマ、泰国ともに仏救国であったということである。ビルマ人、泰国人が非常に情け深く、食べ物を恵んでくれたり、物々交換してくれたりして、われわれを助けてくれたことである。
 足を引きずって退却の途中、医薬品集積所跡に、征露丸がたくさん残っているのを見付け、それを兵に持てるだけ持たせたのは天の助けであった。おかげで赤痢患者も出ず、この征露丸を与えると土人が喜んで食べ物でも何でもくれたのであった。
 野菜は山草で間に合せていたが、ある時道端に生えていた芋を取って食べたら、のどがえごく、全員泡を吹いて土人に笑われたこともあった。
 乾期の水の不自由は先に書いたが、一度でよいから生水を思う存分飲みたい、そして、梅干しの一個をしゃぶりたい、それができたらいつ死んでもよいと本気で思った。インパール作戦帰りの兵に出会った時、茸(たけ)だけはよく吟味して食べよ、籾(もみ)は籾(もみ)なり食べてはいけないと注意された。
 タイ国の奥地の文化の模様を紹介しょう。奥地の土人は毎朝臼(うす)で籾(もみ)をつき、箕(み)で選別する、小米は鳥の餌(えさ)にする。土人は卵は食べない。マッチがないから火種に大木がもやしてある。松のコセ(松やに)の火を「ケヤ」という付け木で火を移すのである。茶の木でも大木で、はしごを使って茶つみをする。食べものは手当たり次第青葉を食べる。私たちも土人の食べている草なら安心して、名も知らない草を取って食べた。言葉は通じないが手まねで話をするのであるが、各地に散在している支那人がいて、漢字で書けば少しは通じる。住家は主として竹一色で二階建てで、柱、床、敷物、かこい、屋根、すべて竹で作ってある。二階に住み、家畜は下で飼う。下には万年火がくすぼっていて、煮炊(にたき)はその火種から火を移すのである。また、その火のくすぱりで蚊や小さな蚋(ぶよ)にも悩まされることが防げるのである。私も土人の家の家畜と共に一夜をすごしたことがあるが、小さな蚋(ぶよ)は防ぎようがなくて困った。土人の家財道具といえば鍋(なべ)、スプン、皿、程度、被服2・3枚という実に簡素で、お寺参りなどは牛車で家族一同、家財道具を乗せて出掛ける。
 さて、NHKの最近のビルマ戦争についての報道によると、ビルマから泰国へ通ずる山道は、各部隊行兵が通過した数はおびただしい、その道すじの食べられるものはほとんど食べ尽くされてなくなり、なお道中飢えて死亡した将兵の数は実に万余に及ぶと書いている。ここの戦闘に参加した将兵の戦死、傷病死者、その数実に18万とも23万とも報じられている。
 私も、道中持っていた万年筆、時計、針、糸その他のものすべてを、食糧と交換し、辛うじて生命を保って来たのである。
 終戦になって泰国ナコンナーク収容所を訪ねたら、先にアンパンで別れた小川、常保、森本各小隊長はトングワ戦で戦死戦病死せられたと聞き、もしこの戦闘に参加していたなら、同じ運命を負ったことであろう。よくも助ったものと、運命のありがたさをしみじみと感じた。そして、これら戦友のご冥福を祈って涙が出た。
 現在三重県津市の護国神社に祀られている祭7370部隊(歩兵第51聯隊)所属の将兵の英霊の数、実に4644柱の多きに達している。
 私の過去を回顧してみると、九死に一生を得て生還させて頂いたことは、ひとえに神仏祖先のご加護のお陰で、この広大無辺なお慈悲によって今日なお生かされていることは、なんとありがたく幸福なことと感謝している次第である。
大東亜戦戦歿者慰霊碑建立に当りて    小杉町慰霊碑建立世話人一同
  
 歳月は流れ終戦より二十有余年を経て、此処小杉町墓地の一角に、大東亜戦戦歿者の慰霊碑を建立することが出来たのは、当区復員者各位の御協力、並に世話人方の並々ならぬ御尽力の賜と厚く御礼中す次第で御座います。顧みるに、吾々神仏の御加護によりまして無事帰還致す事を得、亡き戦歿者の英霊永久に安かれと御祈り申し上げる次第で御座います。此処に重ねて心余る会員の御協力並に世話人方々の御尽力、石工菰野町田光松永易様の御奉仕を感謝申し上げます。

 1、建立月日  昭和48年12月
 2、戦歿者 32名
 3、復員者 75名内物故者15名


戦歿者氏名
  
  伊崎幸之助    服部繁    服部勝  
  伊崎孫義    服部十郎    服部銀市
  服部光男    服部誠一    服部清司
  服部弘    服部春三    服部清
  服部春男    川崎忠義    中山勝助
  服部光春    川崎清明    山本梅春
  渡辺力夫    河崎一郎    近藤健次郎
  渡辺俊夫    舘昇    近藤三郎
  渡辺甚一    舘耕作    近藤博
  川崎秋一    舘四郎    小林利秋
  渡辺孝次郎    舘信義
  
建立者世話人

  舘一治郎    鷲野箭    森清重
  川崎喜    舘勇    舘勇太郎
  服部光秋    舘耕    川崎秀夫
  服部忠治郎    舘五郎    服部吉彦