神のみことば(義、正義、義人)
- 聖書には、しばしば義とか正義、或いは義人という言葉が見られますが、一体この言葉の意味は何でしょうか。
日本語で「義」といえば、広い意味があるようです。即ち、辞書には、義とは道理、条理、正義、徳義、意義・・・とあります。
しかし聖書にある義とは、最も宗教的な意味があり、ただ道理に従って行うとか、法を守るとか、道徳的に行うことではありません。
- 聖書にはノアについて、「義人」であったと書いてありますし、他の人物についても同じことが言われています。
紀元前8世紀において、初めて自分の預言を書いた預言者アモスは、「災いなのは、公正を苦味に変え、正義を地に踏みにじるもの」(アモス5:7)と記しています。
詩編にも、義や正義という言葉が出てきます。例えば「主よ、私の正義と無罪によってさばきを下したまえ」(詩7:9)等。
新約聖書にも、イエズスさまや使徒たちの手紙においても、何度となく正義について語られます。例えば、主は山上の垂訓において、
「義に飢え渇く人は幸いである」(マタイ5:6)といわれましたし、聖パウロはローマ人への手紙において、
「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととせられたように、一人の従順によって多くが義とされた」(ローマ5:19)といいます。
- 要するに、一般的に義や正義とは、人間の正しさ、法を守る理性に従って行う等、美しい人間の姿を表わす意味があります。
故に無神論者の裁判官は、正義的な判決をくだすことも出来れば、罪のために心の汚れた人も道理に従う可能性もあります。
この世における正義とは、根本的に各人に与えるべきものを与えさせる徳です。即ち、法律に従って、犯した犯罪に対して適切な判決を下す裁判官は義人であります。
同じく、払うべき賃金を払う雇い主は正義を守ります。えこひいきしないで、子どもたちに報いを与える父親は義人であります・・・。
- しかし、神さまの正義は異なります。何故ならば、神さまは法に従う義務はなく、また人々に何も与える必要もありません。
神さまの正義は、ご自分の愛と憐みだけに基づきます。聖書にある人間の義や正義は、法に基づく徳よりも、神さまの正義に似るものでなければなりません。
聖ヨハネによりますと、根本的な掟は愛の掟です。愛の掟には、他のすべての掟が含まれているといいます。
- 聖ヨハネは「神は愛である」(Tヨハネ4:8)と記します。この神さまの定義は、哲学的にも神学的にも完全な定義であります。
何故なら、神さまは完全な方である以上、知性と自由意志があるからです。存在する者の頂点は自由意志にあるのですが、その目的は愛することです。
神さまは、ご自分の名前をモーセに表わしたとき、「わたしはある者だ」或いは「わたしはいる者だ」とおっしゃいました(ヘブライ語ではヤーウェ)。
換言すれば、神さまは存在する最も完全な方である以上、愛でなければなりません。
人間も神さまに似せて象って造られたものですから、愛でなければなりません。神を愛して、人間を愛すべきです。
- 聖書において「義」「正義」或いは「義人」という言葉は、人間(その行い)が神さま(そのみ業)に似ていることを意味します。
そのためにイエズスさまは「天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マタイ5:48)と言われました。
故に、「義」または「正義」は、聖書的な意味では、聖書並びに聖霊の賜物をとおして人々に表わされる神のみ旨に従うことです。
聖書には十戒が記されているとおり、神さまが選ばれた民を、その罪のために罰するけれども、
いつも神さまはついには赦す例があります。神さまを愛する人間は、魂のために光であるその掟を守り、兄弟を助ける時は「義人」であります。
聖書によりますと、いくらこの世の掟を守っても、神さまから離れる人間は義人になれません。
我々は信者として、神さまの義(正義)を愛して、聖書的な意味において義人になるよう努力すべきです。
(H07.04.02 四旬節第5主日)
