ゴエル(go'el)の神学

 ひとつの言葉から他国語に翻訳することは、難しい問題であります。時には一定の国語には、その国の文化、生活様式、習慣などから生まれ出た言葉があって、翻訳しようと思う時に、それに相当する言葉がない場合が少なくありません。 その時は、翻訳する人が各々の場合に、或いは他国語にもっとも意味の近いことばを選ぶか、或いは元の国の言葉を翻訳せず、そのまま使って、何らかの説明を加える方法しかありません。
 しかしながら、翻訳される言葉の国には、その言葉が意味する制度、習慣、ものなどがなかった場合には、その意味が非常に弱くなって、多分読む方は、はっきりわからない危険があります。
 このために、イタリヤ語には、皆さんのよくご存知の諺があります。それは「トラドゥトレ、トラディトレ」(tradutore,tradittore)。直訳しますと「翻訳者、裏切者」というい意味ですが、 音の似た二つのことばでうまく言い表しています。確かに、諺の通り、翻訳する時は一定の国語のきれいな意味を正確に伝えることができなくて、それを裏切る場合があります。
 ヘブライ人は砂漠の民であって、少なくない者は家畜をもって、現在のベドウィンのように遊牧生活を送っていました。そのために、法的な問題が起った時に、 町にある裁判所へ容易に行くことが出来ませんでした。また、一定の時に定住しなかったものは、決まった裁判所へ行く権利もありませんでした。
 他方では、部族制度があって、各部族において一番年寄りの方は族長になって、その大きな家族を司る習慣もありました。
 このように、社会が認めた「ゴエル」の法的な概念が生まれました。
 ゴエルとその役は一体何でありましたでしょうか。説明をしてみましょう。
 ヘブライ人にとってゴエルというものは、何かの災いが起った一人の最も近い親戚であって、その人に、被害者を助ける責任があったものでした。
 多くの災いが起る可能性がありました。
 例えば、一人が後に返すことができない借金をつくった、或いは敵の部族の虜になった、または誰かが無法者に殺された。それとも、子孫なしに死んだ兄のやもめが哀れな状態に陥った…。
 こういった場合には、法律によれば、その苦しい状態から当人を助けることは、ゴエル(最も近い親戚)の義務でした。
 レヴィ書には次のように定められています。
「おまえたちの所有する土地については、買い戻しの権利を相手に与えよ。おまえたちの兄弟が貧窮に陥り、自分の所有する土地を売らざるをえなくなったら、 そのいちばん近い親族(ゴエル)にいく。その親族は、自分の兄弟が売ったものについて、買い戻しの権利を行使する」(レビ25:23〜25)
 また、 「ともにいるおまえの兄弟が貧困に陥って…他人に自分の身を売るなら、身を売ってのちも買い戻す権利がある。彼の兄弟が、その人を買いもどすことができる。 父方のおじや、おじの子や部族の血縁の者がその人を買いもどせる」(レビ25:47〜49)
 聖書にはゴエルの例が数限りなくあります。
 たとえば、アブラハムの甥であったロトは、ソドマ市に住んでいました。ある時、近くの国々の数名の王たちは、 ソドマとゴモラを襲って、沢山の分捕り品をとり、多くの人を虜にしました。その中にロトがおりました。誰かが逃げて、この次第をアブラハムに伝えました。すると、 アブラハムはロトのゴエルとして、彼を解放する責任を感じて、318名の自分の部族民を連れて、王たちを追いかけ、ロトを解放したのであります(創14:1〜19)。
 ルト書にも、ボオズは「やもめを守る義務のある近い親戚として、ついに彼女と結婚しました」(ルト2:20)
 ヘブライ語では、これらの多くの場合には、その義務を果たした者は必ずゴエルと呼ばれますが、わたしどもの聖書の各場合には、それを違った言葉で翻訳します。 最もよく使われる翻訳語は「解放者、血の仇をとるもの、救い主、購い主…」などがあります。
 わたしどもの言葉には、ゴエルの意味をそのまま伝える単語がありませんので、仕方ないことでしょう。しかしながら、ヘブライ語の『ゴエル』のかわりに、 例えば『保証人』と訳するならば、もとの言葉の美しくて深い意味が全く薄れてしまうのです。
 詩編においても、しばしば神さまをイスラエルのゴエルと呼びます。
 イザヤ預言書には、特に40〜46章においては、ヤーウェはイスラエルを救う「ゴエル」と繰り返されます。
 来るべき救い主についても、罪の購い主という意味でゴエルという言葉は使われます。 すなわち、キリストは教会のゴエルであるという意味になります。
 永遠なる神さまヤーウェは、イスラエルのゴエルとなって、それを何度も預言者を通して証言した事実から、深い神学的な意味のある、ながれ出る結論があります。 すなわち、ヤーウェは自分の民と契約を結んで、その「ゴエル」になった時に、限りない愛をもって、神として、ある筈のない義務を負われたのであります。
 即ち、もし自分の民が敵(どんな敵でも含まれる。たとえば悪霊でも)に圧迫されるならば、神は守る義務があります。もし自分の民が外国に流されるなら、神は解放する務めを負っています。
 強いて言えば、もしも自分の民が罪を犯すならば、神さまはそれを救う責任を引き受けたのであります…。それ故に、ご自分が選んだ人々を救うために、御独り子を与える ほど世を愛されました。ここに「ゴエル」の神学は展開していくのであります。
 キリスト信者は、神さまの新しい民であり、神さまは我々のゴエルであります。
 わたしどもの言葉に訳された時に、この意味が薄れてきたうつくしい言葉の意味を再確認して、我々のすべての敵から解放してくださった復活のキリストさまに心から感謝して、 我々の「ゴエル」として、約束した復活を期待しながら、神の民として忠実に生きましょう。
(S63.04.24 復活節第4主日)top home