ムニ神父様ほど恵まれた方について、わずか1枚の紙にまともなことを書くのは不可能だと知りながら、神父様の寛大な心を頼りにして、敢えて書くことにいたしました。
わたしが昭和30年1月24日、四日市に参りました時は、教会は諏訪にあって、ニューゼント神父様が主任で、ムニ神父様は助任でありました。それ以来、12年間、ムニ神父様と親しく付き合って、共に宣教したのです。
二人とも、ほとんど同時に管区長になって、昭和42年、四日市を去り、東京でまた、6年間付き合いました。
ムニ神父様に関しての思い出は山ほどありますが、わたしにとって最も感心したひとつのことは、神父様の教会に対する愛情と熱意のことでした。
彼は神父たちの会議などにおいて、しばしば教会についてお話をしました。即ち、日本人に教会を知らせる方法、教会に対して興味をひきよせる作戦、教会に対する尊敬を深めさせる等々。
何故なら、ムニ神父様にとっては、『教会』というものは、キリストであったからです。故に、彼が教会と言うところにキリストということばと入れ替えても、意味は通りました。
その終戦後まもなくといってもよい時代には、いまと違った宣教の方法がありました。例えば、ムニ神父様はよく教会においてコンサートをひらいたのであります。
その時には、かなりの人がコンサートを聞きに来ました。その場合には、神父様は皆さんに挨拶をして、これから始めようと思っているカトリック講座を発表し、募集致しました。
他の場合には、何方(どなた)かを招いて講演会をひらき、またその折に、宣教することを考えて、少なくない信者ができたのであります。
即ち、あらゆる機会を宣教の場に利用して、いつも努力なさったのであります。
ある時、ウィーン少年合唱団が三重県に来ることを聞き、どうしても四日市教会で歌っていただこうと思い、いろんな妨げを乗り越えて、その計画を成功させました
(ウィーン少年合唱団はウィーンにあるエスコラピオス会のマリア・トロイという学校で生まれたのです。その時、わたしも教会にいて、その合唱団の指導者とお話ができたことは、非常に嬉しかった)。
四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたしは翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、
神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、
神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。
海星高校の校舎を建てる時、ムニ神父様はいろんな方面で手伝ってくださり、メリノール女子学院を設立するにあたってもご努力され、海の星幼稚園を開園し、
また聖母の家の施設を建てられました。
他にも予定しておられたことがあったようですが、メリノール会の管区長に選ばれて、四日市を出る必要があったので、その計画を実現することは出来ませんでした。
これは全て教会のために行われたことでした。しかしながら、ムニ神父様の『教会』という概念は狭いものではなくて、全世界の教会のことでした。
いまは天から、四日市の小教区はいうまでもなく、全世界のカトリック教会のために代願しておられるに違いありません。
わたしたちも、ムニ神父様の永遠の安息を祈りつつ、神父様の熱意に倣って、教会のために力の限り働きましょう。
(S63.08.28 年間第32主日)
※この8月28日のミサは、8月14日に帰天されましたヨゼフ・ムニ神父様の追悼ミサとなりました。
<photo=ヨゼフ・J・ムニ神父>