現在は、あるいは罪がなくなった、それとも第二バチカン公会議の後に罪の概念が変ってきたと思う人がいるようです。
 しかしながら、この考え方は大きな間違いであります。不幸にも、罪と罪を犯す可能性は、いまだ世の中に存在し続けています。
 ある人は次のように言います。即ち、「わたしは昔、日曜日のごミサに参加しなかった場合は、心の呵責を感じましたが、いまはその呵責を感じなくなりました」。 そして、不正な圧迫や間違った考えから解放されたかのごとく、それを言うのであります。ところで、神さまのみ旨に反して良心の呵責を感じないほど悲劇的なことはありません。 なぜならば、これは気がつかずに悪魔の罠にかかってその奴隷になることであるからです。神さまはいまでも存在している以上、その愛に反することである罪も、存在しているのです。
 公教要理の教えによると、罪は大罪と小罪に大別されます。そして、皆さんご存知のとおり、小罪は神への愛を無くするものでもなければ、 地獄に落ちるものでもないけれども、私たちの徳を弱め、大罪へ導く可能性があるのです。その反対に、大罪は私たちを完全に神から離して、 もし死ぬ前にそれを後悔しなければ、神から永遠に離れた状態で存在し続ける、即ち、それは地獄という状態であります。
 ところで「小罪」という言葉は、誤解を招くかも知れない。即ち、小罪とは、余り大事なことではないと思わせるかも知れない。 しかしこの考え方は非常に危険なものであります。なぜならば、小罪も神さまの愛に反する以上、非常に大事なことであります。 即ち、私たちのためにご自分の生命を犠牲にした神さまの愛に反することは、忘恩であり、裏切りであって、悲劇的な自己中心的なことであります。 私たちは、もし小罪を犯すならば、心から悔い改めて、謙遜にして、それを告白すべきだと思います。
 ゆるしの秘跡を受けることは、神さまに向かって我々が愛しているということをいうのであって、父なる神さまに完全に戻ることであり、 神に対する侮辱を補うことであります。ゆるしの秘跡は、罪の汚れを洗ってくださる魔法的な儀式ではありません。換言すれば、間もなく汚くなるということを知りながら、 毎日お風呂に入ることが出来ると知っているから、気楽にお風呂に入ることと違います。
 告解することは、信仰と愛の行ないであります。また、ゆるしの秘跡は、罪の汚れを清めてくださるばかりではなくて、将来罪を犯すことがないように、力と恵みを与えてくださる秘跡です。
 もし誰かが、「なぜ、神さまは罪を犯しうる人間を創られたか」と聞くならば、返事は、神さまは、 仕方なしに善を行なわざる得ないロボットを作りたくなかったから、というのです。
 神さまは人間に自由という大きな恵みを与えてくださったのです。そして、自由の中に神さまに反する可能性は必然的に含まれているのです。 神さまは人間の自由の愛をお望みになるのです。ロボットに愛されることが面白くないことであれば、また無理に愛されることは、幸せをもたらすことでもないのです。 私たちは自由であるからこそ、一方では全力を尽くして神を愛する可能性があります。また「神を忘れる」こともあり得るのです。 私たちは自由に神を愛するとき、機械として行なうのではなくて、人間的に行なう幸せを感じ、助かりを得るために、やるべきことをやった満足を味わうことが出来るのです。
 即ち、罪を犯す恐るべき可能性なしでは、私たちは自由を持っている人間ではなくて、良心なしに、 仕方なしに行なうようにプログラムされたロボットになります。が、ロボットというものは、幸せを味わうことが出来ません。
(S59.04.08 四旬節第5主日)

「私は御聖体の中に、イエズスさまの御受難を観想することが出来ました。また、 御聖体から私を支える力を汲み出して、いつもその力のお陰で、最も難しい問題を乗り越えることが出来たのです」
(聖マリア・ミカエラ)

キリストへの愛の祈り
 主よ、わたしがあなたを愛するのは、天国の幸せを約束して下さったからでもなければ、恐るべき地獄があるから、罪を犯さないのでもありません。
 わたしを促して下さるのは、あなた御自身であり、十字架につけられたあなたの御苦しみと御死去であります。
 わたしを動かすのは、あなたへの愛だけです。ゆえに、天国がなかったとしても、あなたを愛し、また地獄がなかったとしても。あなたを畏れるでしょう。
 わたしが主を愛するからといって、天の幸せを与えるべきではありません。なぜなら、わたしが期待するものがなくても、同じように愛したいからです」
(スペインの、知られざる著者)
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