ギリシャの黄金時代(西暦前五世紀頃)、哲学が著しく栄えたときに、論理を通して何でも証明することができると誇った詭弁学派が現われました。
この学派に属するものたちは「ソフィステス」と呼ばれました。この言葉はギリシャ語で学問という意味の「ソフォス」という言葉から生まれ出たのであります(注)。
アリストテレスは「フィロソフォ」(哲学者)という言葉をつくりました。即ち、誰かが彼に向かって、あなたは「ソフォス」(学者)ですかと聞かれたときに彼は、
「いえ、わたしはただ、フィロソフォスだけであります」と答えました(ギリシャ語では、フィロソフォスとは、「学問を愛するもの」という意味であります)。
はじめの時は、ソフィステスという言葉は敬語であって、学者という意味で使われましたが、ついには、いわゆる詭弁家という意味になってしまいました。
詭弁の例を挙げますと、よく知られている次のような論法があります。即ち、アテネの一人の詭弁家は、次のように話しました。
「アテネの人は嘘つきです。わたしはアテネ人だ。従って、わたしも嘘つきだ。しかしながら、わたしが嘘つきであれば、わたしが述べることの反対は、
本当でありましょう。ゆえにアテネの人は嘘つきではない。しかし、アテネの人が嘘つきでないなら、わたしが言ったことは本当でしょう。従って、アテネ人は嘘つきでしょう」
そしてこのとおり、ひとつの肯定文は同時に、真実と誤謬(誤り、間違い)であることを証明したつもりでありました。
勿論、この論法にはひとつの明らかな間違いがあります。それは、ひとつの絶対的肯定文を、例外なしに取り上げることであります。例えば、
「スペイン人は情熱的だ」というときは、本当のことを述べますけれども、だからといって、すべてのスペイン人があらゆる場合に情熱的だという意味ではありません。
当然、スペインの人々はその傾向があっても、中には、ちっとも情熱的でない人もいれば、また場合によって非常に冷静に行なう人もいます。
詭弁学派の起源は、ものや運動や他の明らかに見えるものを否定したピタゴラス派にうかがえます。
エレヤのゼノンはピタゴラス派の一人の有名な哲学者であって、運動などの存在を、いろんな論法をもって否定したのであります。その中には、「足の速いアキレス」という論法はよく知られています。それは次のとおりです。
もしアキレスは、のろい亀に百メートルのところまで先に走らせるならば、彼は決して追いつくことができない。なぜなら、
亀が百メートルの地点に離れているとき、アキレスが走り出すなら、その距離を走っている間に、亀は少し進むでしょう。ですから、
またその距離を走る必要があります。が、その間、動く亀は少しながら、また進むだろう。このように考えてみますと、アキレスは近づくことはできるけれども、追いつくことができません。
他方では、運動がないもうひとつの理由は、動くものは一定の距離を渡るより先に、まずその半分を通らなければならないが、
さらにその半分の半分もありますし、いくら短い距離を考えても、まずその半分を渡るべきだから、要するに、いつもひとつの半分が残る以上、動くことができません・・・。
ソクラテスの時代から現われた大哲学者は、新しい正確な概念を定め、そのおかげでソクラテス前の哲学者や詭弁家の誤謬を暴露することができました。
詭弁家というものは、いつの時代にも存在して、いまでも存在するのです。私たちも、自分の過ちを弁明するために、無理な説明を考えるとき、詭弁家のように行なうのではなかろうか。
ときには、自分の過ちを無理に弁明するよりも、それを認め、赦しを願う方が、立派な人間にふさわしいことであります。
ときには、戦争があるから、神さまを信じることができないという人もいるのです・・・。しかしながら、戦争を行なうのは、神さまではなくて、人間であります。
神さまは人間に自由を与えてくださった以上、人間が罪を犯そうと思うたびに自由を取り上げるはずではない。最後の日に、自由を乱用した人々をお裁きになるでしょう。
ときには、私たちは自分の過ちを人のせいにする場合もあります。「わたしは、あの人がそこにいるかぎり、
その教会に行きたくありません」。しかしながら、私たちの信仰は、人とどういう関係がありましょうか。
信仰は、神さまに差し上げるいけにえである以上、模範的でない神父があっても、それに妨げられてはいけません。
要するに、論理に騙されてないけません。私たちは信者として、信仰で生きるべきものであって、詭弁によって生きるものではありません。
なぜならば、詭弁というものは、いくら論理的なものに見えても、誤謬を含んでいるのですし、誤謬は真理であるキリストから人間を離すものだからです。
(注)説によって、ピタゴラスとか、あるいはヘラクリトス「がこのことばをつくった」のだといわれています。
(S63.06.05 キリストの聖体)