シャローム(SHALOM)

 聖書は神さまの霊感によって書かれた書物ですが、神さまは具体的な言葉(即ち、ヘブライ語)をもつイスラエル人たちを通して、聖書を書かせました。
 ギリシャ語で書かれた新約聖書を除けば、聖書のほとんどの書はヘブライ語で書かれました。いま私たちが使っている聖書は、勿論翻訳されたものです・・・。
 ところが、少なくない場合には、私どもの言葉には、ヘブライ語と全く同じ意味のある言葉はありません。
そういった場合には、もとの言葉の意味に最も近い意味のある私たちの言葉を使います・・・。
 しかしながら、時々、私たちの言葉はヘブライ語より狭い意味があるために、翻訳するときは、もとの言葉の持つ豊かさは失われます。
 聖書によく使われる言葉は「平和」ですが、それはヘブライ語で「シャローム」といいます(ヘブライ人たちは、新約聖書をギリシャ語で書いたとき、 「シャローム」という言葉を、ギリシャ語で調和、一致、平和という意味を持つエイレネ-Ειρηνη-という言葉になおしました)。 ところがこの翻訳は、もとの意味の一部分しかないゆえに、非常に不完全であります。
 ヘブライ人にとって「シャローム」とは、身体的な調和と体の好調、即ち元気であるから、自分の健康に対する心配がないという意味もあれば、家庭内に何の問題もなくて、 妻、子どもなどに対して何も案じることがない意味もあり、また隣人と仲良くし、経済的な問題もなく、罪を犯していないから、良心の呵責も感ぜず、神さまと仲良くする意味をも含んでいます。 勿論、敵がなくて、戦争を行っていない意味もありますが、それだけではありません。
 換言すれば、「シャローム」とは、どの心配からも解放され、安心して信頼を持って、身体、道徳、霊的な分野において平和で満たされている意味を含んでいます。ゆえに、私たちが使う平和、あるいは平安よりも広い意味があるわけです。
「シャローム」とは、イスラエル人たちの普通の挨拶でした。日本語でいえば「おはようございます」、あるいは「こんにちは」に相当します。しかし、その意味は上述したとおりです。
 この短い言葉で相手に、すべての分野において最もよいものを望むと表わしました。今日でも、イスラエル国へ行けば、どこでも聞こえる挨拶はシャロームです。
 旧約時代において、たとえ戦争を行っていても、イスラエル人たちは「シャローム」を持つことが出来ました。なぜなら、神さまが自分たちの味方であれば、必ず勝利は得られるゆえに、結果のわからない戦争がもたらす恐怖や心配がなかったからでした。
 ゆえにヘブライ人たちは、戦争のときも、「シャローム」と言って、挨拶して、慰めを味わいました。
 イエズスさまがこの世に来られたとき、イスラエル人としてこの挨拶を使われました。
「シャローム、アレシャム(shalom alecham)ーあなたたちに平和ーこの言葉は、皆がわかる言葉でした。しかしイエズスさまは、ご自分の口において、この言葉は信心深いイスラエル人たちが言う意味より深い意味があると使徒たちに注意されました。
「わたしはあなたたちに平安を残し、わたしの平安を与える。わたしは世が平安を与えるようには、与えない。心を騒がせることも、恐れることもない」(ヨハネ14:27)
 この言葉でもって、イエズスさまはご自分の平安は、ユダヤ人が言った「シャローム」という言葉よりも広い意味があると教えます。
 主は世、悪、罪に勝ちました。イエズスさまに留まる人は、決して見捨てられることはありません。
この世において、どこでも誘惑や罠があっても、我々は最後の勝利を保証してくださる主の「シャローム」を堅く信じています。
 ごミサの中で、平和の挨拶を互いに交わすときに、「シャローム」に含まれる平安と、イエズスさまの平安を望み合いましょう。
 最も大きな災いを起こすことが出来る恐ろしい武器をもって戦争が行われている今日、神さまに聖書的な意味をもつ平和を祈りましょう。
 すべての心配、すべての恐れを除く、平和の君と呼ばれるイエズスさまが提供してくださる心の深い平和を味わいましょう。
(H03.02.10 年間第5主日)top home